本文へスキップ

Sc研の紹介PRIVACY POLICY

中野先生との出会いと追憶

山田一雄(昭和35 ~ 60年S研在籍)

中野藤生先生(左)と糟谷忠雄先生(右)、
(2006年6月21日撮影)

      私が初めて中野先生とお会いしたのは、遡ること1955 年(昭和30 年以下S.30 年と記す) の3 月末と記憶している.その頃名大・工学部の木造校舎で物理学会の分科会があり、学会のアルバイトに雇われ参加費(?)を受け取るべく坐っていると、阪大の 伏見康治先生と数人の若い研究者が来場,其の中の1人が中野藤生先生であった.

      S研創設者の有山兼孝先生は,独逸のHeisenberg の処に留学されたことがあり,研究分野をSupraleitungとされたことから,頭文字をとってS研の呼称がついた(その後広く物性理論研究室に発展 した). 私は4月から理学部・物理学科・S研の大学院に入学した.始め糟谷忠雄先生(特別研究生, 有給) と同室になって,金属の電気伝導について指導を受けながら勉強をはじめた.当時は有山教授,中嶋貞雄助教授(英国留学中),佐藤久直氏,杉原硬氏のお2人 の助手という陣容であった.

      中野先生は同じ年1月に阪大助手から名大・教養部教授として着任された1),2).  当時の教養部は瑞穂分校と豊川分校に分かれ,前者は旧制第八高等学校の跡地に建てられた木造の校舎で,大部分が講義室,中野先生の部屋はお粗末なもので あった.私はその部屋に頻繁に通って物理全般について多くを教わった.長い道のりを先生は自転車に乗り,私は徒歩で色々話しながら帰った事を思い出す.先 生はS.36 年10 月から英国のBirmingham大学(Peierls 教授)に留学された.なお同じ頃勝木渥氏は教養部助手に採用(S.36 年4月1 日) され,その後工学部に移籍された.そして暫らくして信州大学に転任された.

      S.29 年,久保・富田の磁気共鳴の一般理論が提出され,この論文から示唆を受け,中野先生は電気伝導の一般論を展開されたと聴く.そこではある近似のもとで従来 のボルツマン方程式から得られる結果を再現できることが示され,これが電気伝導の線型応答理論の事始めとなった.その後[物性論研究], [Progress T.P.] や[Journal P.S.J] などに発表される論文, 研究会などでの議論は盛況をきわめた.岩波書店が戦後初めての物理学講座(1 巻がいくつかのテーマの分冊から成り,続きものもあったと記憶している) を出版し始め,私も全巻ではないものの手に入れた中に,「変分原理」というのがあった.留学中の先生からそれを送ってほしいという来信があったことを記憶 しているが,今にして思えば当時から気体運動論と変分原理の関係を思索されていたのだろうと推測される.

      戦後最初の理工系ブームにより,日立,東芝といった民間企業が自前の研究所を創り始め,東大には物性研究所が附置されることになった(学術会議の下部組織 である物性小委員会で何度も議論され,委員の有山先生はその都度東京に出張し,夜遅く帰宅され明朝の研究室会議で報告された).その結果S研にも人事異動 が始まり,先ず助手の佐藤,杉原の両氏に続いて私より1年先輩の柳瀬章氏3) が大阪・門真に創られた松下(現パナソニック)の研究所に移られた.さらに物性研へは初め糟谷先生が,すこし遅れて中嶋先生が転任されることになった.し たがって研究室会議ではその後のS研人事について,転任されるお2人の先生も含めて検討が始まった(当時博士課程3年の私も会議に参加し人事問題を初めて 経験することになった).討議の結果中野先生を迎えることになり,教室の人事委員会に有山先生とご一緒に出席し,経歴や業績の紹介のお手伝いをしたことを 記憶している.委員会での了承後研究員で構成された教室会議で提案し可決された.そして有山先生と英国滞在中の中野先生との間に交信が繰り返され,S 研へ移籍される事になった.その時私は思わぬ幸運に恵まれ,空きポスト(助手より1級下の通称教務員という国家公務員)に阪大卒の鈴木英雄氏と供に推薦さ れ,以後大学に長く籍をおくことになった.

      木造2階建ての理学部の数学,物理など一部が鉄筋の新校舎(A館) に移転し,中野先生帰国後,大阪府立大から米国より帰国間もない吉森昭夫助教授が着任され,鈴木英雄氏が早稲田大へ転任された後柏村昌平氏が着任された. 大学院も博士課程に松浦健哉(S.33 年) さん,服部真澄(S.35 年) さんと新人が加わり,統計物理,磁性理論を主な研究テーマとする新研究室がスタートした3),4)

      ところで理工系ブームにより,講座増の概算要求が次々と通過し,物理教室では既成の研究室を含め今後どんな分野の研究を目指すのかという長期計画を議論す る委員会が発足して,S研でも研究室会議など各種会議に対応することになった.私などは若気のいたり積極的であったが,中野先生は物理教室のこの空気に恐 らく辟易されていたのではないかと後になってから推察し,忸怩たる思いが残った.工学部にはS.34 年に応用物理学科ができS.36 年に「応用理論物性理論講座」がスタートし,東京都立大から志水正男先生が着任された1),2).その志水先生から応物に,もう1 つ理論講座を創るということで中野先生招致の話がもち上がった.研究室では大問題になり何度も議論を重ねた結果,結局応物に移られることになり(S.40 年), その時教務員の服部氏も応物へ移籍された.私がS.41∼ 42 年の2 年間イリノイ大学に留学している間に,S研は再び新陣容へと変化し,碓井恒丸教授、長岡洋介助教授が着任,吉森先生は物性研に転任され,柏村氏は教養部に 移籍された.

      S研からS.61 年に教養部に移った私はその後も時々中野先生にはお会いしていたが、どんな話にも耳を傾けられる先生の周りには何時も若い人が集まって自由に討議してい た.最後にお会いしたのが三ヶ根山での統計物理学研究会1) である.その時撮って頂いた写真を基に私の水彩肖像画と先生ご自身の画を送って下さった.時々壁に架がげてはご冥福を祈りながら先生を偲んでいる.

参考文書

1) 第17 回(2006 年) 統計物理学研究会報告集の「中野先生と名古屋」という勝木氏の記事を参照.勝木氏は有山先生の1937-1962 年の手帳26 冊と1940.1941 年の学習院手帳2 冊,計28 冊の内容を,1984 年から1986 年の2 年に亘って大学ノート9冊に抄録筆写するという労作を残された(コピーの1部は名大理・物理の坂田記念史料室に保管されているという).上記「中野先生と 名古屋」はその中から中野先生の名前が出てくる時期の抜き書きで,当時のS研の状況の記録である.S研を創立された有山先生はS.17.4 に教授として就任された.そして戦後のS研の教官・研究者の状況を,この記録から抜粋してみると;
  S.25 助教授中嶋貞雄就任, S.29.7 英国留学 
  S.27.10 理論物理学国際会議(S.28) に備え,Dr. Del Re による英会話の練習が始まる.
  S.27.11 杉原硬氏,間瀬正一氏Colloq.で談話
  S.28.1 糟谷忠雄氏(特別研究生)  Colloq. で談話
  S.28.1 芳田奎氏の反強磁性の諸問題についての特別講義(3 日間)
  S.28.3 中野藤生氏 Colloq.で談話(3 回)
  S.29.7 中野藤生氏の人事,教養部人事選考委員会に提出,S.29.9  教養部審議会で推薦

付記:以下の2項目(A),(B) は「名古屋大学五十年史部局史一」抜刷[理学部],「同部局史二」[教養部](1989年12 月発行) を参照した抜き書きである.
(A) 当時の教養部の人事は,先ず教養部人事選考委員会(学部代表や教養部主事から構成) され,その後学長が主宰する教養部審議会での議決を経た.教養部審議会の構成は,「各学部長及び各分校主事からなる」と規程され,学部側6名,教養部2名 という構成で教養部教官の地位は制約されていた.
(B) 名大の物理学関係の教官で初めて理工学部に着任したのは,教授宮部直巳でS.16.5 であった.理工学部から分離して理学部が発足したのは翌年S.17.4 で物理学科は3講座,教授有山兼孝,助教授上田良二,早川吾郎(S.20.3 の東京大空襲で犠牲者になる) が就任,S.17.10 には第4 講座増設により教授坂田昌一,S.18.11 には第5 講座が増設され,戦後教授関戸弥太郎が着任した.

2) 勝木氏は有山(手帳) 議事録の**1946 年(S.21 年)∼1949 年(S.24 年) 所載の中から旧制度の研究室の在り方及びS研卒業生のリストを作成された.また松浦民房氏は同窓会名簿から新制度S研大学院生のリストを作製された(別途掲載のリスト).

3) 服部真澄氏の追悼文「中野先生の思い出ー独創性を大切にされた先生」第20 回. 統計物理学研究会(2009年12 月23 日,於名工大). 報告集(2010 年5 月)

付記

この小文を纏めるに当たり,勝木,松浦,服部の3 氏そして三宅和正氏のご協力を頂きました.付記して感謝申しあげます.

*この小文は第20 回統計物理学研究会報告集(2010 年5 月) に掲載されたものを加筆・修正したものである.1),2),3)

**(勝木渥先生から頂いたコメントより) 正しくは 「有山(手帳)議事録の」⇒「(坂田史料室の保管する)有山会議録の」